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郷土玩具と呼ばれるようになるまで

更新日:2022年8月31日

この文章は私”ずぼんぼ”が2012年から書き綴っているブログ「びんごやさん」の2017年11月14日の記事を転載します。


”民藝品=郷土玩具=おみやげ”

悲しいかな、未だに、そう思っている方が多いのも事実です。

いや、郷土玩具という言葉自体知らない方が多い。

当然です。だって、郷土玩具を扱っているお店も少なく、

普段はあんまり目にしないですものねえ。

でも、「BRUTUSのみやげもんの世界じゃん」と興奮して目を皿のようにして見て帰られる、流行に敏感な若人達もいらっしゃいます。

実は、密かに郷土玩具はブレイク中なのです。


2017年の9月から4回に渡り東京民藝協会の例会で、日本郷土玩具の会会長さんで、全日本だるま研究会の会長さんでもある、中村浩訳さんに郷土玩具のお話をして頂きました。


郷土玩具と呼ばれるようになるまで



さて、どのようにして郷土玩具とは始まったのでしょうか

大昔は、鬼退治に由来する静岡の十団子(とだんご)や、静岡のおかんじゃけ(尻叩き棒)でお嫁さんのお尻を叩き、良い子が生まれますように願ったという棒。各地にあったようですが、静岡のものは色とりどりで、女の子は髪を結うように遊んだり、男の子は軍配のようにして遊んでいました。

安土桃山時代に焼き物の文化が訪れて伏見人形が始まり全国に伝わり、江戸時代の前にすでにこのようなものが作られていました。

中国や朝鮮から色々入って来ました。

凧は戦争の狼煙(のろし)、節分や、赤い色の文化も中国から来ました。

赤は危険な色、天然痘にかからないようにという魔除けとして子供の身の回りに置いていました。 独楽は朝鮮の高麗(こま)からきています。

羽子板は蚊を追い払うために。

お雛様は人型を水に流すのが始まり、宮中のお姫様とお殿様を象っている雅人達の飾り物、元々は立ち雛だったものが内裏雛になった。地方にいると買えないので、庶民達は泥人形や張子で作りました。

江戸中期になると庶民も少しお金が使えるようになり、旅行にも行けるようになりました。関東だと神奈川の大山、関西だと伊勢。

庶民が農閑期の収穫が終わった頃に、やれやれと言った時に、村で何人かがお参りという名目で遊び呆けてくるというもの。送り出してくれた家族や村の人に何かを買って帰らなければなりません。自然と、そういう神社の門前にお土産屋ができて、伊勢の赤物や竹のへび、大山では木のおもちゃが売られるようになりました。これがお土産の始まりです。

二見ヶ浦のお守りは普通の紙っぺらではなくグッズのようになっていったそうです。


おみやげという字は、土産と書き、土地の物産から来ていますが、神社でくれるお守りのことを宮笥(みやけ)といいます。その宮笥という言葉に土産という文字をくっつけて”みやげ”という言葉になりました。こういう物が郷土玩具となって今に伝わっています。

芝の大門の芝神明で、今も10日間続くだらだら祭りというのが行われていて、千木筥(ちぎばこ)が授けられる、中に豆が入っている。

かなかんぶつ、友引人形、有馬の人形筆などが今も作られ、郷土玩具と呼ばれています。


明治になり、文明開化となり洋装になっていきました。人々は新しいものに飛びつき、セルロイドや金属やゴム製のおもちゃが輸入されて、そのうちに日本でも作られるようになりました。

新しいものが入って来て昔からのおもちゃがなくなってくると、次第に作者も減っていき、そういうものが無くなっていくと、そいつを集めたくなるとか懐かしむという偏重が現れます。

明治12年に文化人が集まって、竹馬会という会ができ翌年、子供の頃を懐かしんでおもちゃを持ち寄る集いができました。

その中に清水清風という会員がいて、持ち寄られた古いおもちゃを見て感動して、他の会員などから譲り受け、20年くらいかけて300点くらい集めた、とても絵が上手だったので、その集めたおもちゃを”うないの友”という木版の本を全10巻作りました。初版で100冊刷って、大正2年に亡くなるまで6巻は清水清風が作りました。東京ではあまり売れず、京都の芸艸堂が買取り再販しました。 清水清風の涅槃像(ねはんぞう)が今も巣鴨の神社にあり、郷土玩具に囲まれた清風の横たわった碑が見られます。

清風はコレクションを博覧会に出したり、大供(子供の反対)の会というのを作ったりしておもちゃ博士と呼ばれました。


大正に入り、坪井正五郎というおもちゃ学者が出て来ます。

大正時代末期に郷土玩具のマニア田中緑紅という人がいて郷土玩具が話しているタイトルで連載し、その中で”郷土の玩具”という言葉を使い、そこで大正13年に郷土玩具というのが初めて活字として使われました。

そこから、各地でサークルができて、機関紙もできて、マニアが交流するようになりました。ここまでが戦前のことです。

戦争が始まり、兵隊さんたちが中国の郷土玩具 を買い集めて、銀座のギャラリーで展示即売会をやったりしました。


鉱物博士の木戸忠太郎は満鉄の仕事で大連に行き、女女房(ミャンミャンビョウ)の起き上がりを見て感銘しました。それが日本に飛来し赤く塗られてだるまになったとのことです。木戸忠太郎はだるま堂を建てコレクションを置き、だるま博士と呼ばれました。

昭和に入り、武井武雄という童画家が”日本の郷土玩具”という本を作る。写真も入り画期的なのは、作者の住所と名前、武井武雄か観た感想、おもちゃの種類も北から南まで紹介されています。

かなり有名な人なので、各地の郵便局から情報を集めたと言われています。これを頼りに、各地の作り手に注文したり、訪ねて行くことができるようになりました。


昭和30年頃、日本橋の白木屋(今の東急)で、催事場で郷土玩具即売会が開かれました。

1月2日から開き、中村さんも朝5時頃に浜松の家を出て、白木屋の前に並んだそうです。マニアたちはみんな並んで、開店と同時に我先にと8階の催事場に入り、とりあえず好きなものを買物籠に入れて行って、その後チョイスしてからお金を払いました。そこではみんなライバルなので無言で、お金を払った後に一段落して飯を食い、地方から来た人はみんなで備後屋さんにに行ってそこでやっと気を許して、お互いの一年の無病息災を祝って帰ったとのこと。それが何年も続きましたが、白木屋が東急になり、日本橋から渋谷に移り、数回やって終わってしまいました。その後、核家族化が進み、家が狭くなり郷土玩具が置けなくなって、収集家が減ってしまったのです。

郷土玩具が売れなくなり、そして冬の時代に入ることになり、20年くらいそれは続いたといいます。


そして、近年になり、kokeshi bookや、BRUTUSのみやげもんで今風に紹介され、若者の心を掴んで、一時期のブリキのおもちゃのように郷土玩具がブームになり、郷土玩具の会も若者がいっぱい入ってきました。冬の時代は100名ほどでしたが現在は200名くらい。

毎月1回例会を行ってワイワイやっています。


”田舎臭いものだから都会で売れる”

その土地にある材料で作られた、その地方でしかできなかったものが商品化されて、郷土玩具になったのです。

しかし、もっと厳密にいうと、”うないの友”に載っているものが現在郷土玩具と呼ばれているもの。

悔しいかな、その”うないの友”に載っていないものは、伝統的に地方で作られ続けていても、郷土玩具とは呼ばないんだそうです。


では、これから郷土玩具はどうなっていくのかな?ということになると、実際には量産することができない。量産すると民藝の味がなくなってしまう。売るために量産すると、そっぽを向かれてしまう。そういう難しさがあるのです。

そして昔は土地の材料を使うことが味噌だった。しかし今は材料を取ることがままならなくなって、ほとんど外国から入ってきている。Made in Japanではなくなって行っているところが辛いところだと中村さんは仰います。

小綺麗な仕事ではないので作者が子供に継がせたくないなということも多くなって、これからどんどん無くなっていくのではないかと思う。

そうならないためには、買っていただかなくてはいけない。一つ買ってもらえれば作者が一日生き延びるのです。


中村さんご自身は、浜松のご実家は看板屋さんで、高校2年の時、商工会議所で市民のコレクションという催しがあり、看板を作って持って行ったら、その時に郷土玩具を持ってきた人がいて、すごいカルチャーショックを受けたんだそうです。昭和30年代で、進駐軍が色々と外国のものを持ち込んだ時代に日本の売れ残ったような郷土玩具を見て、なんなんだこれは!とすごい感動があり、その瞬間に「こいつに一生ハマるだろうな」と思ったそうです。その翌日から無我夢中で集めた。この感覚はきっと、清水清風が竹馬の会で郷土玩具を持ち寄った時と同じ感覚ではないかと思う。その時はただ数だけ集めては喜んでいた感じだったが年をとってきて、なんでよかったのかなとつらつら考えていて、「絶対的に無くなるものだから美しい、滅びゆく美しさで、僕は集めているのではないかと思う。」と中村さんは仰いました。

みんなに買えやと言っているが、実際には無くなってくれるところがいいのかもしれない。無理して残す必要はない。無理して作れと言っても永続的なものではない。それでも、日本文化なので残って行って欲しいなと思う。

これだけの土俗的なおもちゃで、意味を持って作られているのは日本しかない。これだけ郷土玩具が沢山作られた日本を自負しても良いのではないか。

こういうものがあることで生活が潤ってくるのではないか。

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